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何かになりたかった何かの、ひとりごと
自傷でないことを祈りながら

防衛機制で埋めていたものがあったとして

埋めていたものが白骨化していれば衛生上は問題なくなっているのだろう

腐乱した状態で出てきたらたまったものではない

今も生きていたりした日には目も当てられない
ので
ここで向き合うことが正解かどうかは分からない
けれども
いつまでも埋めておけるとも考えられない
そして
義理を通すのであれば今日がリミットであろう
もうずいぶんと長いこと
わたしにとっての冬は愛おしい季節だった。


『西遊記花街酔醒』を観た。
この世をきれいだと信じたのが12月だった。
『羅刹の色』を観た。
きれいなひとが存在し続けることを認めたのが2月だった。
『ヴルルの島』を観た。
はじめて声帯でもって好きでしたと好きですを言った。
自分の浅はかさをそれでも喜べたのが11月と12月だった。
『キャガプシー』を観た。
はじめて手紙を書いた。
感謝を言葉にする勇気を得たのが11月だった。
『蜂寅朗読 其の弐』を聞いた。
好意を言葉にする慙愧を受け入れたのが11月だった。
『末原拓馬奇譚庫』を観た。
誠実性を見るには自我だけあれば充分であると理解したのが1月だった。

冬は芝居について思う季節、という感覚。
特別の、祈りみたいな観劇体験に限らなくたって『RUN ver.2.0』やなんかも11月だったわね。
もちろんこれ以外のシーズンに観た作品だってたくさんあるのだけれど。
『アイワズライト』とか『伯爵のおるすばん』とか『Dice or Scythe』とか。どれも大切だ。

ただどうしても、大きな驚きと喜びを刻んで、わたしを変質させたお芝居というのは
多くが寒い季節の記憶として残っている。

退団の報せを読んで
過去の好意が遡って毀損されないことを実感したのも12月だった。

演劇について四六時中考えているわけではないわたしだから、
ひとつのことを長く思い続けられないわたしだから、
ひとつのときに並行して思い続けられないわたしだから、
お芝居が冬の夜に充てられるということは
冬の夜をお芝居に充てるということだった。


偶然に意味を見出す、取るに足らない遊びのつもりでいた。
たまたま特別大切な記憶が、その頃に集中しているのを取り上げているだけのつもりだった。


最初の夜からそれなりに月日が流れて、つい先だって思い出したのは
それより前にわたしが変質していることだった。

直近の記事で書いておきながら、それですら一枚の膜越しのようであった回想が、
ふいにリアリティを取り戻して再生されたのが昨日の夜。
わたしが全部諦めたの、冬の夜だったんだ。
文字として、音声として、映像として振り返ってきて、それで「向き合えてる」なんて思い挙がっていた。湿度と温度、触感をずっと忘れていた。
薄黄色い歯列への嫌悪感を取り出して、「でも冷静でいられる、ぼくはちゃんとしてる」なんて勘違いもいいところだった。湿った熱い呼気とぬめる粘膜と乾燥した冷たい空気を、全部無視していた。
最悪だ。


冬のものとして芝居を設定したのはそれが便利だからだった。
わたしの、わたしによってコントロールされない部分が、きっとそういうふうに判断しただけだ。
わたし全然傷ついてたね。ぼくのことぼくって言うの、物心ついたころにはそうであったつもりでいたけれど、今になってよく思い出せば、小学校低学年ごろはそんなことなかったや。
大爆笑で足りない大爆笑だわ。こんなことってあるんだね。
わたしずうっと本気で偶然を信じてたよ。冬の夜を喜んですらいたよ。すごいね。すごいことだ。


どうして「きれいなお兄さん」が衝撃であったか、こんな答え合わせがあると思ってなかったな。
わたしほんとは世界中のこと呪ってたんだ。
ウケる。わたし、みんなのこと絶えずちょっとずつ好きなつもりでいたわ。
自己評価はさておき、自己愛は確固としたものであるつもりでいたわ。
全て気のせいだった。
全部ヤになったまま騙し騙し運転してたから、本当にきれいなものを知ってびっくりしたんだ。
触れるものにきれいなものなんか無いって、絶望でさえなく納得していたから、結論が動いてびっくりしたんだ。
あの頃、実際は損なわれていたんだな。
わたしが汚いって思う理由を、お兄さんみたいにできないから、の自省として説明できること
驚くほど効果的な延命措置だったんだ。
その間は自省に閉じて、誰かによって害されたという理由を一切必要としないもの。
事実でもあるのだから、そうやって負荷を軽くすることは間違いない方法だった。

たしかに生き延びたわ。生まれてから最悪の夜々に至るまでの年月以上に生きた。
中学生の自分を今さらこんなふうに笑うと思っていなかったわよ。
よかったね、高校でお芝居に誘ってくれる女の子と知り合って。自棄に乗り換えられるまでの僅かな期間、惰性でも永らえたのはあんたの功績だよ。
奔放に"遊ぶ"ことが時間稼ぎで、それで堪えたのも事実だけれども
生きていくことに絶望しなかったのは、耐えうる分の自己嫌悪で"遊べた"からだ。
あの頃わたし、わたし以外のことけっこう好きなつもりでいたもんな。
あの頃どころか昨日の夕方まで、世界のこと好きなつもりでいたもんな。

自分のこと嫌いなだけだったから、なんとかやってこれたんだ、と。
十何年も経ってから、やっと恩に気付いた。


わたしは明日、親に成るための行動に出る。
ちゃんと立ち返れてよかった。ギリギリで間に合った。危ないところだった。

世の中のこと大っ嫌いなまま大人でいられる。
今朝方の嘔吐を、そうあるものとして、渋々じゃなくて執着を手放せる。
最悪の気分を埋めて、心を軽くして、それで克服ヅラして何が養育者だ。


見落として喜ぶんじゃなくて、最悪な夜々を念頭において、その上で幸福な冬の夜だってあったことを思い出せる。大丈夫。怖いことを怖いままでまだちゃんと好きだ。恐怖の正体が見えれば温かいものを飲むことも明るい場所を探すこともできる。
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好きなものを好きだと言うことが、ときどきひどくおそろしい。
夜、キャラバンカルーセルからマーメイドラグーンを望むために生まれてきたのかもしれない。

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