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何かになりたかった何かの、ひとりごと
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たぶん8年位前に
「タイマースイッチと、グリセリンと、10円玉を見ている。」 みたいなことを書いた。 ティーンのころから、終わるんだったら感電がいいなと考えていた。 それで、思い立ったらできるように、それらを用意した引き出しを作った。 コードの端はきちんとほぐして(被膜を剥くのが楽しかった。楽しさ余って少し余分に剥いてしまった)、十円玉をくっつけて。 サージカルテープとグリセリンも同じ袋に入れていた。 何度目かの引っ越しの時に、捨てた。 定かではないけれど、20代の半ばくらい? 別に企図しなくなって捨てたわけではない。 使いそうになって捨てたわけでもない。 曖昧に計画したまま、なんとなくで捨てた。 強いて言えば、買い戻せる財力が手に入ったので、捨てた。 全然断ち切ってない。 あの頃だって幸福だったし、今も幸福だ。 それだけ。 だから今後何かあったとして、それはぼくが苦悩していたからだとか、逆に満足したからだとか そういうことは見当違いだと思うよ、 と、そのときぼくは話せないわけだけれども。 PR 好きでいる男の子が家族になりたいと言ってくれた
し そうありたいなと思ったので そうすることになりました。 ひとつ前に、いわゆる恋人同士というやつであった女の子が挙式してからしばらく経っている そのときに「いいなぁ」と思ったソレに近いものが自分の身にやってくるということに驚いたりしつつ やっぱり「いいなぁ」と思っている 実は(実はでも何でもないか)ぼくは四半世紀くらい、己を「ぼく」と思考しているのだけれど たとえばそんなことを気にしない風でいるひとだ または気にしていたとして、それを僕に悟らせないひと ぼくのことを予測するときに期待を上乗せしない(または上乗せしていることを悟らせない)ひと これから起こる事柄に対して、まだこちらに届かない未来に対して現実的な根拠など存在しないのに あらゆる方法で知覚しようとする不思議なひと それで不安になったりするのに、不安にならないことも恐れるような可愛いひと そしてどうしたって悲観できないぼくを、それでも軽んじないひと 好奇心の奴隷をそばに置いて、きっと心休まらないだろうに ただ分かんないよと手放してくれるし 同時に分かりたいと願ってくれる 何より幸福だと思うのは 彼がぼくに理解されることを喜んでくれているようだということ 命の遊び方が全然似ていない二人なのだけれど ぼくがあの子にとって楽しみ甲斐のある伴走者であると素敵だなあと思う いつだったかこのブログが読まれたとき、パスワードもかけずに書いているのだからそりゃもちろん誰かが来ることもあるのだろうけれど、驚いた。
ひとりごとだから読んでいて面白いものではなかろうに、と思うものの、嫌ではない。 生活において、このテの「びっくりしただけで、全然ヤじゃないんだよ」を伝える難しさを克服できずにいる。 「あなたの行為に困っただけで、あなたの人品を嫌うわけではないのだよ」「あなたの作品を愛していて、馴れ合ってお世辞を言うのではないのだよ」「あなた自身を好きになっていて、あなたの能力のみを買うのとは違うのだよ」 どれも苦手だなあ。 ケンのある口調、空気を読めない行動、迂遠な物言い、礼を欠く振る舞い、エトセトラ、エトセトラ…… いや、ね。 大好きな俳優宛てにお誕生日おめでとうございますって打ち込むだけの行為に何度夋巡しているのと 我ながらおかしくなってしまって。 なんにも関係ない文でも書こうかしらと逃避した次第。 エンターテインメントがアートの下位互換のように言われるのは何故?
別のものでしょうに。 それぞれを取り違えることは、それぞれに不幸だと思うの。 エンターテイナーをアーティストと呼ばないであげなよ。アーティストをエンターテイナーと呼ばないであげなよ。 見てらんねー。 わたし? わたしは何でもないよ。(可能なら面白がって消費したりなんだりして)捨てて。 「いつか裏切ってしまうときが来るかもしれないけれど」
と言われた。 そんな日は来ないですよ、と思うから頷けず、しかしまっすぐ目を見つめることができなくて唇を口内にしまうように噛んだ。 期待していないのです。 大好きでいることはわたしの情動で、そこに例えば「わたしの好きなあなたでいてほしく思います」なんかを含むことはないんだ。 愛している!のそのひとが 過去に何をしていても(あるいはしていなくても)、 言動の裏で何を考えていても(あるいは考えていなくても)、 未来に何をしようとも(あるいはせずとも) 愛している!に影響などできるはずがないのです。 LOVE D RIVEが好きで、 これとCradleはわたしの聖歌と言えるゲーム音楽だ。 ゲーム音楽だっていうか、 LOVE D RIVEのロングバージョンは己が知るすべての楽曲の中から、わたしの聖歌だとしている。 超絶技巧ってやつは無いし、ならどこまでもシンプルに突き詰めたのかって言われればそういうわけでもない。 普通の、曲、だと思う。 でも、わたしにとって「すごくいい」だった。 それで全部。 わたしの大好きはそれで全部です。 見栄でした行為でも、嘘で選んだものでも、卑屈が生んだ言葉でも、そうでなくても、 わたしの、そのときの「大好きです」を何人たりとも偽りにはできない。 だって大好きなんだもん。 わたしが裏切られることは、未来永劫、無い。 たとえばS2TB Recordingsは年内で活動を辞め、たとえばおぼんろは語り部が4人になって、なんかそういう年なの? そうしたいって言って変わっていくひとびとに、そんなふうにしないでって言う気にはならないのですけれども。 いつか裏切ってしまう日がくるかも知らないけれどなんて言われたところで、 もう好きになれたっていう過去完了の事実でいっぱいいっぱいに幸せだから裏切られようが無いのです。 人生はプラマイゼロにできている説に関して僕は異を唱えていて、 だってそれを知られたという事実で勝ち越し決定じゃないか!という好きなものって存在するよ。 なんてね。うふふ。 実家の布団はアパートにあるそれより上等で、重たいが暖かいです。おやすみなさい。 もう幾らか回復したのでこうブログ記事を書けているわけだけれど、アレルギー性の結膜炎で瞼を開けられなくなっていた。
思い当たるアレルゲンが無く、ストレスじゃない?なんて言われて笑ってしまった。 観たいものがなくなったならもう見えなくていいや、なんて、わたしの肉体は短絡的が過ぎるのではないかしら。 『何か当に共に西窓の燭を剪り
却って巴山夜雨の時を話るべき の、こう、「具体的な行為を夢想する寂しさに立証された愛おしさ」みたいなものが好きです』 というツイートを投稿した20分後に、さみしくなるニュースが発表されていたことがウソのようで少し笑ってしまう。 大好きなひとが劇団を去った報せを読んだのは夜になってからだったけれども。 もっと駄々っ子のように泣きたくなるかと思っていたが、感想は「あぁ今日だったかー」といったところ。 なんとなく予測していたことであったし、わたしに決定権のない事項はどうすることもできないと分かっているし。 退きたいと思って退けずにいるよりずっと嬉しいくらいです。 そのことがさみしさやかなしさをチャラにするかって聞かれたらそりゃされないけどさ!!! ただ今までを思い起こしていこうとしたら、どれも綺麗で格好良くて可愛くて魅力的で、しみじみするより先に思い出し笑いが湧いて我慢できない。 知っている言葉が多いことを語彙力があると言う向きに納得できません。 きみの伝えたい内容が分かるよ、と正しく思われてはじめて語彙力と認められるべきなのではなかろうかと考えるから。 なぜか嫌みたらしい皮肉屋だと誤解されてばかりだ。 賞賛や憧憬、感謝を当てこすりに思われることが多々あるわたしは語彙力に乏しいと言えるはずだ。 好きなものを好きだということへの躊躇いは、自己評価の低さに起因する「このクズが好きなんだからそれもカスなんだろ」を恐れるだけでなく「ひどく慇懃無礼に批難されているな」と取られたら辛いからでもある。 父母の友人を友人として育ったわたしの言葉選びは同年代には古臭かったのか、難しいこと喋ってて分かんない!と言われたことは一度や二度ではない。 古文や漢文の授業が好きでのめり込んだティーンエイジャーの頃はそれが顕著であったし、さらに大学では周りにそのトーンで話しても突っかからない人間ばかりであったから学校の外ではより浮いた。 語彙はある。 語彙力は足りていない。 そういうことなのだろう。 しかし複雑な思考回路を持つ質の生き物ではないから、言いたいことは難しくないはずなのだ。 喜怒哀楽は喜怒哀楽として等しく存在しているはずであるのだし。 ……どうだろう。存在しているのかな。 哀と怒は鈍いかも分からない。 でもこれは性格の幅に収まると思う。 いつだって好きな相手に好きだと告げるのは思った通りの言葉を選んでいるのになあ。 大好きですが誤解されるとしたらこれ以上どうストレートにしたらいいのでしょうか。 こうやって誰かに読まれる想定をしていない書き散らかしでなら、愛している!愛している!と吐き出せるけれど。 想像することが下手だ。
想像力に乏しい、というか、想像力が、無い。 ここがここでなかったら、自分が今の自分でなかったら、という空想はした。もしもの話を考えるのは小さな頃から好きだ。 昔からひとりあそびが好きだった。 イマジネーションの中でわたしはジュラ紀にやってきたタイムトラベラーで、宇宙から雲を観測するSF気象予報士で、機械仕掛けの大怪獣をメンテナンスする技士で、とにかく「想像」はいつかのどこかへ自分を連れて行くものであった。 しかし他人についての想像は別の問題である。 他人の見聞きしたことや感じたことは当人以外に分かりようがないとしか思えない。 状況から推測することはできても、それは「僕がそうであったら恐らくこう思う」をベースにしていて、共感ではなかった。 だから、びっくりした。 はじめて「感情移入」をさせられた舞台は、もう、ここでお芝居の話をしている時点でしつこいくらいに確定的なのだけれど、高校帰りに誘われたあの西遊記だ。 またかよって思う? わたしは思うよ。 強引と言いたいくらいのパワーだった。 わたしはそのときわたしを離れ、苦しそうに優しく笑う僧を師だと思った。自分が手にする剣が視界の下方で震えていることさえ知覚した。 わたしはL字の客席にいて、わたしの座る側から僧の横顔は見えるはずがなかった。 わたしの視界にいたはずなのは黒と銀で髪を半々に塗り分けた男で、でもその様子見えないのだった。 つまり、彼が見ているものを見た気になっていたのだ。喉の奥がざわざわした。 よくよく精製された声音と仕草は魔法みたいだと思う。 パッとカーテンを開かれたような、眼鏡にレンズが入ったような、そんな感覚を覚えている。 なんだ、こんな風にモノを捉えられるなら、そりゃ辛くないだろうよ、と納得した。 定型発達の人はこれができるのか。特別なシーンでなくても。 凄いな。 僕には思いもよらないことだったよ。 普通の人間って凄いな。 今も他人に共感するのは苦手だ。 現実世界でも架空の世界でも、誰かの感覚について考えるのはなかなか上手くできない。 難しくて、疲れて、自分が嫌になるけれど、それでも諦めることを諦めてしまったのは共感したい物語が尽きないからだ。 とても美しいものを見ているのだろうな、と思わされるひとがいなければ、「あのときのお芝居は偶然が重なって綺麗なものが見られただけで、そもそも自分には客観的な想像しかできないのだ」と努力をやめていた気がする。 第四の壁を認識しながらだってお話が楽しめないわけではないのだし。 トライアンドエラーで日常会話もそれなりにやれるし。 お兄さんがあの夜わたしの前でお芝居をしてくれて、よかったな、と思う。 あの夜わたしの前でお芝居をしてくれたのが、お兄さんでよかったな、と思う。 自分にも普通の人間みたいな感覚でものを見ることが出来うるのだと信じられて嬉しかったし、今も嬉しい。 綺麗だと感じたことを、綺麗だと言うことは 自分のクオリアが他人とそう遠くない自信がなければ苦しい。 ひとりあそびは齟齬がないから安心できた。 でも、今、「わたしはあのひとがとても綺麗だと思うんだ」と声に出せる。 泣きそうだ。 この気分だって、誰かに共有されるのかな。 わたしも誰かと一緒に泣きそうになれたいな。 | プロフィール
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らうる
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非公開
自己紹介:
好きなものを好きだと言うことが、ときどきひどくおそろしい。
夜、キャラバンカルーセルからマーメイドラグーンを望むために生まれてきたのかもしれない。 ねじがたりない 言語121 動作82 全体106 せんせいになりたかった たいおんがほしい はせをにこいしてる リンク
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